[最終更新日]2012年2月21日 20時34分
大正六年五月から六月にかけ、依田市長と市議会の七人の委員は、清浦奎吾元総理大臣をはじめとする、東京在住の県出身有力者の助力を求めて相次いで上京しました。こうして、粉糾した水道問題の舞台は、東京に移りました。
上京委員は、内務省小橋土木局長、江藤哲蔵代議士、安達謙蔵代議士を訪問し、申請取下げへの助力を懇請しました。
三回にわたって在京有力者と会見した上京委員は、申請取下げへの助力を期待しましたが、逆に、上水道の必要性を説かれ要領を得ないまま帰熊することになりました。
両氏を初めとする東京在京の県関係の先輩方は、申請取り下げに上京した依田市長や市議会の委員達に、反対に上水道の必要性を説かれたのです。
一方、市長は、既に在京有力者の意向が、取下げ反対で一致 しており、上京の目的を果たした上に、布設許可や国庫補助についても、小橋土木局長から協力の約束を受けて、六月十九日に帰熊しました。
六月二十四日の臨時市議会で、市長及び山隈議長から、上京時の経過報告が行われました。市長の報告は、「今回の取下げ問題の責任は、自分一人の 不始末にあり」として、自らの進退を明らかにした、悲壮なものでありました。また、山隈議長の報告は、申請取下げ派の敗北を告げたものでありました。
市長は、ここに初めて自分の信念を貫いて、市議会の大勢を早期着工に動かすことができました。こうなると、野田堰密約も、市長の緊急の処置として了解するものも多くなりました。